自己紹介と旅の始まり
みたらい渓谷ハイキングコース

 

メンタルクリニックに通院するようになる前、私はおそらくどこにでもいるような健康な人だったと思います。仕事は製造関係の技術職で、主な業務は図面を描くことでした。私が描いていたのは、既製品ではなく一品ものの図面で、ワンオフものや別注品と呼ばれるものでした。私が書いた図面に基づく製品は現場で製造され、納品されていきました。

 

休みはほぼ週一度の日曜日でしたが、仕事が終わった後はスポーツジムに行って汗を流したり、趣味のバスケットボールを楽しんだりするのが平日の夜の楽しみでした。朝755分から現場でラジオ体操をして、一日仕事をし、その後夜の8時ぐらいから夜の10時くらいまでスポーツクラブやバスケットボールの練習に行くのが日常でした。

 

週末にはバスケットボールの友人と一緒にご飯を食べに行ったり、日曜日には河原でバーベキューをしたりするのが普通の日々でした。今思えば、当時の私はとても体力があったと思います。病院に行くことはほとんどなく、家族とは特別に仲が良かったわけではないですが、円満な関係を保っていました。

 

うつの症状が初めて現れたのは、会社の状況が大きく変化した時でした。大きな取引先が民事再生申請をし、私が勤めていた会社への注文が大幅に減少したり、無くなったりした時です。それは12月には既に分かっていたことですが、実際に影響が出始めたのは新年を迎えてからでした。

 

年始の仕事初めの日、朝礼を終えて事務所に戻った後、部署のトップから私と同僚2人が会議室に呼ばれました。そこで上司から「今月で退職する」と告げられました。その上司は私が一生かかっても追いつけないほどの技術力を持つ、尊敬する人物でした。私が所属していた部署は3人で、その中で私は部署のトップになりました。

 

仕事は予想通りに難しくなりました。仕事の量、現場の工程表の問題により、私は次第に追い詰められていきました。自分自身が働き続けることしかできない状況に追い詰められ、ある時点で私は社長に退職を申し出ました。しかし、その申し出は「それは敵前逃亡だ」と却下されました。

 

私はその会社で働き続けることを選び、仕事はますます厳しくなりました。図面の進行状況、納期の問題、図面の差し替え、現場からの問い合わせ、取引先からの問い合わせ、そして私自身が完成させるべき図面の仕事、これら全てが私を追い詰めていきました。

 

この厳しい状況の中で、初めて体調に異変を感じたのは、仕事による緊張と興奮が夜になっても解けず、十分な睡眠が取れなくなった時でした。それでも、仕事の状況が厳しいとはいえ、改善の余地を探すよりも耐えるしかないという気持ちが私を支えていました。

 

異変を感じていたのは会社の人にもいたと思います。私自身に心身の不調の自覚があるようになって以降、「なんか迫力出てきたね」と言われることがありました。おそらく、極度の緊張状態と興奮状態が表に出てしまっていたのでしょう。そして、しばらくすると、別のことを言われるようになりました。「なんか最近ボーっとしているね」と言われるようになりました。また、「おい!」と大きな声で後ろから呼ばれても気付かないことがあったり、とてもショックでした。

 

こうした状況の中で、ふと、体が動かなくなるという症状が出ました。それは何かを考えているときや仕事をしているときで、突然手が止まり、動かなくなることがありました。また、頭が真っ白になって何も考えられない状態になることもありました。これが、私が初めて体調不良を自覚し、病院に行ったきっかけでした。

 

そして、私は最終的に医師の判断を受け入れて休職を選びました。休職前の診断書には「適応障害」と書かれていました。しかし、すぐにはこの診断書が、時間をかけて出される不安障害という病名の診断書に取って代わられることになりました。

 

初診のとき、私が感じたことを正直に書くと、「これは他人に話して理解されるものだ」という驚きと安心感がありました。しかし、それがあっという間に薄れ、焦りや恐怖、自己否定感が高まり、次第に深みにはまっていきました。そして、初めての薬の副作用に対する恐怖感がありました。

 

今思えば、初期治療の段階での私の認識が甘かったと反省しています。何もないところから何かが始まり、それが自分自身の中に深く根を張るまでの過程を理解することなく、病気に対する理解を深めることができず、自分自身がどのように対処すべきかを見失ってしまいました。

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